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2013年10月25日

しんしんと心に沁み渡る

なんだかねー、、、
って深々と溜め息をついてしまう日は誰にでもあるものだと思う。

若い頃なら深酒をするとか、人に聞いてもらうことである程度のうさははらせたけれど、この頃ではお酒はおいしく味わって飲みたいし、自分の抱えている問題を具体的に他人に言うなんてことを億劫に感じるようになってきた。

ある時友達に「落ち込んでる」と一言だけメッセージを送ると
「かわいそうに。何か好きな映画でもごらんなさいな。それか好きな本をお読みなさい。」
と返信がきた。

「かわいそうに」
なんて、ストレートな同情の表現と友人の包み込むような優しい言葉に、なんだか気をよくして(?)彼女のアドバイスを素直に実行する気になった。

好きな映画は数えきれないほどあり、どれにしようかとしばし思案した末に選んだのは小津安二郎監督の『晩春』。

舞台は戦後まもない日本。妻を亡くした父親との穏やかな二人暮らしを慈しんでいるあまり、なかなか結婚相手を探そうとしない”適齢期”を”過ぎつつある”娘(彼女は27歳)。そんな娘を心配し、所帯を持たせるにはまず父離れさせなければと、自分自身の縁談話をすすめる父親。そんな父親の思惑などつゆ知らず、強い反感を隠せない娘。ひと言で言えば父娘の家族ドラマ。身も蓋もない言い方をすればファザコン娘と、その娘を機転を利かせて巣立たせる父親の物語。

そんな普通の人々を描いた映画なのに、初めて『晩春』を見た時、私は度肝を抜かれたといっても過言ではないかもしれない。終戦から5年の日本にこんな映画があった、そのことに驚嘆してしまったのだ。私は『晩春』を見るたびに本気で笑い、涙する。
原節子の優美な動きや話し方、笹智衆の穏やかで凛とした雰囲気が清々しい。コミカルな場面もちょこちょことあり、楽しい。心情を煽るような音楽や大げさな演出など何ひとつなく、雪のようにしんしんと静かに心に沁み入る。そして深い感動を呼び起こす。
見終わる頃にはなぜ見始めたのかなど忘れてしまうほど幸せな気分になっていた。

1949年 日本
監督: 小津安二郎
主演: 笹智衆
    原節子

2013年5月19日

何もない日曜日


「にちようの朝、妻はいつものごとくお気に入りの教会で礼拝中。」

と夫がからかうように言いながら階段を降りてくる。

たいていの日曜日においてチャンネル4系列のMore4ではジェイミー・オリバーというシェフの番組を放映している。たまに例外もあるけれど、いつも30分番組である30-Minute Mealsまたは15-Minute Mealsをだいたい4本から6本くらいいっきょに放映するのだ。

番組について簡単に説明すると、進行スタイルは、スタジオ内かもしくはどこかにセットアップされたキッチンで何品か作るというNHKの『きょうの料理』でときどきやっていたような『20分で晩ごはん』のようなものだ。
だけど『20分で晩ごはん』が本当にその時間内で料理家さんたちが献立通りのものを作ってゆくのに対して、ジェイミーの番組はうまく編集してそれらしく見せてあるものの、本当にその時間内で作りきっているわけではない。番組のポイントは、本当にその時間内にぜいぜい言いながら3コースミールを完成させることじゃない。同タイトルのレシピ本にある3、4品(30-Minuteの場合)をどういう手順でやればタイミングよく作りあげることができるかジェイミーが実際にカメラの前で作ってみせることにある。ここがミソだ。実際の収録はもっともっとかかっているかもしれないのだ。いやそうに違いない。そして普通の人が45分や1時間かかって作っても全然不思議ではない。私はその本からまったく同じメニューの、ある3コースディナーを作ったが洗い物をしながらやったから2時間くらいかかった。
ともかく、それゆえ『20分で晩ごはん』では料理家さんが本気で息切れしたりしているが、ジェイミーの番組では彼がすべては準備万端だよといったふうにゆったりとかまえ、ジョークを交えつつカメラに向かってお茶目な表情を見せたりしながら慣れた包丁さばきと手際で次々に素晴らしい料理をこしらえ、アンティークやヴィンテージの素敵な器やラスティックな木のボードにさりげなく大胆にかつおしゃれに盛り付けていく。
イギリスの多くの人気料理番組がそうであるように、目の保養なのだ。そしてまったりと過ごす時間にぴったりの娯楽なのだ。だから初回の放映から2年半にもなるというのに休みなく再放映され続けられているのだと思う。

何も予定のない日曜日、私はよくトーストとコーヒーを手に、もしくはブランチを食べながら、テレビの前の肘掛け椅子に丸くなって座る。そしてこのトーク上手のシェフが目から鱗のコツを実にあっさりと披露しながらトントントンとリズミカルに野菜を刻んだり、ワシッと大量のバジルを鉢植えからむしったり、オリーブウッドのプラターにおいたチャバタのステーキサンドイッチにサクッとナイフをつきたてたりするのを感嘆の思いで眺める。キッチンでは夫が二杯目のコーヒーか紅茶を淹れながら、彼の父と電話で毎週末お決まりの近況報告をしあっている。時折、「妻かい?彼女なら元気さ、いつものようにジェイミー・オリバーの番組を見ているよ」などと実況中継を交えながら。

2013年2月24日

ふるさと

『そうにゃよか』というのは熊本の方言でとてもいいという意味だ。
大好きな熊本弁のひとつ。といっても口にするのは年配者以上で、若い人はあまり使わないだろう。とてもの熊本弁には『たいぎゃ』という言葉もあり、どちらかというとそちらを使うのではないかと思う。
当の私はというと、たいぎゃを変形させて『たーいな』だとか『たいが』と言うことが多い。とはいえ普段方言で話すことはあまりない。

若い頃は自分の生まれ育った土地やバックグラウンドをないがしろにしたり、しがらみを面倒に思ったりしたこともあったけれど、年齢を重ねるにつれ見慣れた古旦那に改めて恋する古女房みたいに熊本の良さを再認識するようになった。阿蘇や天草の観光地はもちろんのこと、三角にある小さな浜だとか、芦北にある誰にも教えたくない場所だとか、八代にある喫茶店だとか、地元のパン屋さんなど、外国人にでもなったつもりで見渡すと、よいところがたくさんあった。九州にしてもそうだ。
あちらにもこちらにも行ってみたいところがあり、あの南のアイランドを離れたくないという気持が強くなっていた。そんなおりに移住が決まった。

ちょっくら行ってきます、くらいの気持でイギリスにやってきた。

思いもかけないほど文化の違いが堪えた。

故郷は遠きにありて思ふものですか、室生さん?
でも私、故郷にいて満足してる時に来ちゃったものだからなんだかちょくちょく後ろ髪引かれるんです。

そんなわけで、今の私はスコットランド人の血を誇りにしているイギリス人みたいに、肥後っ子であることを大切にしている日本人だ。

2013年2月18日

そうにゃ、よか

ーそんせぇたぁな、そうにゃよかね。よう似合っとりますばい。ーー

と言っていた祖母の口調を思い出すことが最近よくある。
子供のようなところもあった祖母だけど、孫全員を無条件に可愛がる愛情深い人だった。そうにゃよかね、と褒めてくれることも多かった。
根っからのお百姓でずっと土まみれで働いてきたせいか、社交の場は得意ではなかった。でも今は老人ホームにいてなんとか茶飲み友達もつくって穏やかに過ごしているらしい。
ちょっとボケたかなって日も、あるらしい。

ばあちゃん、これからも長生きしてねと思う。

祖母への思慕とも相まって、そのセーターすごくいいね、よく似合ってますよ、という意味の肥後の表現がひしひし愛しい。