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2016年2月22日

2016年のマーマレード

毎年マーマレードを作ることにしている。
マーマレード作りをこなすごとに、年々自分がイギリスに馴染んでいる気がする。
日本にいた頃は保存食作りなどしたことがなかったからであり、橙のような柑橘のセヴィルオレンジが出回る頃になると八百屋などで、いつ入るの?とそわそわする買い物客をちらほら見かけるからだと思う。
ここに住むからこそ目の当たりにする、季節の光景。

マーマレードというのは基本的に柑橘系の果物を砂糖と煮込んだものだと認識しているけれど、玉葱のマーマレードというのも見かける。そしてものによってはなかなか美味しい。だけれど台所にこもって柑橘をコトコト煮込むときの香り、玉葱では味わえまい。
なので私は例年通り、普通のマーマレードを、セヴィルオレンジで作ろう。

作ろう、、、と思っていた。思っていたけれど、ある日マラケシュレモンが手に入ってしまった。丸っこくて、でべそが可愛らしい、小さめのレモンだ。これをマーマレードにしない手はないではないか。いつもはシングルモルトウィスキーを加えるけれど、今年はジンを使おうと決めた。
実はベルガモットレモンとして売られていたのだけれど、アールグレイに使われるベルガモットオレンジではなく、別の種類のもので、調べてみるとマラケシュレモンと呼ばれるモロッコ産のスイートレモンだということがわかった。でもそんなことはどうでもよくなってしまうほど芳しい。本当にアールグレイを彷彿とさせる香りがする。一つだけサラダに皮も汁も使ってみたが、花のようなレモンの香りがして、その特別感に酔いしれてクラクラした。本家ベルガモットは何年か前に一度だけヒップな八百屋で見かけたことがあるが、それ以来幻の存在である。
今年もマーマレードができた。マラケシュレモンとジンのマーマレードだ。
お世話になっている人にあげたり送ったりしているうちに我が家の分は二瓶だけになってしまった。だけどおすそ分けって素敵な習慣。するのもされるのも、嬉しいものだなと思う。
来年はもっとたくさん作らなくちゃ。

2015年1月18日

2015年 睦月

日本で新年を迎えた。
元日に故郷の神社を訪れ、お参りしてお祓いをしていただいてからおみくじを引いた。
7年ぶりに引くおみくじは大吉。お守りを売っている母の知人に結ばなくてもよいかと訊ねると、ほんとうは結んだ方がいいけど、しなくてもだいじょうぶとの返答だったので、失くさないように財布の中に入れる。
コンビニで糊を買って、真新しい手帳の1月1日のところに貼付けた。運勢の方はさっと見るだけにして忘れてしまうのがいい。それよりも惹かれたのは、裏側の神の教。

曇るかがみに姿は見えぬ、みがき上げようそのこころ。

ことばにするのは簡単だけれど、実際こころをみがくというのは難しそうだ。お肌の手入れと違って、こうすればこころの肌理がととのいます、などというマニュアルはない。
だけれどない知恵をふりしぼって、ふふーん、と考えてみると、肌のお手入れに例えるならばこころというのは色々とぬりこんで与えるよりも、洗顔がだいじなのではないかと思えてきた。生きていると、不純なものやよけいなものが知らず知らずのうちに溜まり、こころをカサつかせたり、重くしたりする。そんな魂を淀ませる汚れを、できるだけ毎日きれいさっぱり洗い流すようにするのが、こころをみがく始まりなのかなと思う。

この写真は長崎旅行のついでに諏訪神社にお参りした時のもの。これを結んだ人の運勢も悪くなさそうだ。故郷の神社で家族が引いたのはそれぞれ吉、末吉、中吉とばらばら。だけど末吉だろうと大吉だろうと、はたまた凶だろうと、失物が出ようと出まいと、神の教は皆に等しく記されている。

2014年9月24日

モリバトの唐揚げ

前回の鹿から1ヶ月もたたぬうちに食べたのがモリバトだ。まだ食べたことがなかったので一度料理してみたく。それが主に食されるところなのか胸肉しかなかったのでそれを注文した。
さてどうしたものかと思案したあげく、家族はおそらくこれが食べたいのではないかと思い、唐揚げに。お酒がなかったので省き、みりん、塩、おろしにんにくとおろし生姜をようくもみこみ、しばらくしたら玉子、醤油、タピオカ粉を加えてさらにもむ。ひまわり油で二度揚げしてできあがり。ウチの唐揚げは飯島奈美さんのレシピで作る。コリアンダーを散らしてレモンのくし切りを添える。他ににんじんといんげんの和え物、昆布の佃煮、玄米、絹さやのお味噌汁。
初めてのモリバト、おそらくフランス料理ならばこれを華麗にグルメにするのだろうけども、私が料理したモリバトを食べたら子供の頃に給食で食べた鯨の赤肉の竜田揚げを思い出した。
もう1度、今度は違う方法で料理してみたいけれども、例えgameでも肉は多くて月に一度と決めているのでしばらくはおあずけ。

かくかく鹿々バーグ

私の中で起きた”革命”が発端となって、主に食生活が大きく変わって5ヶ月になる。
まずお肉は丸4ヶ月食べなかった。4ヶ月ぶりにいただいたのは野生の鹿肉を使ったパイだった。

私達はいわゆるgameと呼ばれるものを時々、節度をもっていただくことにしている。

上の画像について。この時は家族のちょっとしたお祝い事があり、彼のリクエストに答えて鹿肉を取り寄せた。鹿肉は脂肪分が少ないため料理する時は豚肉やベーコン、ラドンなどを加えるのが常だったけれども、今は豚は食べないので使わない。
さてお味はというと、、、正直に言うならば、お肉を食べるというそのことが不思議な気がした。

2013年10月25日

しんしんと心に沁み渡る

なんだかねー、、、
って深々と溜め息をついてしまう日は誰にでもあるものだと思う。

若い頃なら深酒をするとか、人に聞いてもらうことである程度のうさははらせたけれど、この頃ではお酒はおいしく味わって飲みたいし、自分の抱えている問題を具体的に他人に言うなんてことを億劫に感じるようになってきた。

ある時友達に「落ち込んでる」と一言だけメッセージを送ると
「かわいそうに。何か好きな映画でもごらんなさいな。それか好きな本をお読みなさい。」
と返信がきた。

「かわいそうに」
なんて、ストレートな同情の表現と友人の包み込むような優しい言葉に、なんだか気をよくして(?)彼女のアドバイスを素直に実行する気になった。

好きな映画は数えきれないほどあり、どれにしようかとしばし思案した末に選んだのは小津安二郎監督の『晩春』。

舞台は戦後まもない日本。妻を亡くした父親との穏やかな二人暮らしを慈しんでいるあまり、なかなか結婚相手を探そうとしない”適齢期”を”過ぎつつある”娘(彼女は27歳)。そんな娘を心配し、所帯を持たせるにはまず父離れさせなければと、自分自身の縁談話をすすめる父親。そんな父親の思惑などつゆ知らず、強い反感を隠せない娘。ひと言で言えば父娘の家族ドラマ。身も蓋もない言い方をすればファザコン娘と、その娘を機転を利かせて巣立たせる父親の物語。

そんな普通の人々を描いた映画なのに、初めて『晩春』を見た時、私は度肝を抜かれたといっても過言ではないかもしれない。終戦から5年の日本にこんな映画があった、そのことに驚嘆してしまったのだ。私は『晩春』を見るたびに本気で笑い、涙する。
原節子の優美な動きや話し方、笹智衆の穏やかで凛とした雰囲気が清々しい。コミカルな場面もちょこちょことあり、楽しい。心情を煽るような音楽や大げさな演出など何ひとつなく、雪のようにしんしんと静かに心に沁み入る。そして深い感動を呼び起こす。
見終わる頃にはなぜ見始めたのかなど忘れてしまうほど幸せな気分になっていた。

1949年 日本
監督: 小津安二郎
主演: 笹智衆
    原節子

2013年5月19日

何もない日曜日


「にちようの朝、妻はいつものごとくお気に入りの教会で礼拝中。」

と夫がからかうように言いながら階段を降りてくる。

たいていの日曜日においてチャンネル4系列のMore4ではジェイミー・オリバーというシェフの番組を放映している。たまに例外もあるけれど、いつも30分番組である30-Minute Mealsまたは15-Minute Mealsをだいたい4本から6本くらいいっきょに放映するのだ。

番組について簡単に説明すると、進行スタイルは、スタジオ内かもしくはどこかにセットアップされたキッチンで何品か作るというNHKの『きょうの料理』でときどきやっていたような『20分で晩ごはん』のようなものだ。
だけど『20分で晩ごはん』が本当にその時間内で料理家さんたちが献立通りのものを作ってゆくのに対して、ジェイミーの番組はうまく編集してそれらしく見せてあるものの、本当にその時間内で作りきっているわけではない。番組のポイントは、本当にその時間内にぜいぜい言いながら3コースミールを完成させることじゃない。同タイトルのレシピ本にある3、4品(30-Minuteの場合)をどういう手順でやればタイミングよく作りあげることができるかジェイミーが実際にカメラの前で作ってみせることにある。ここがミソだ。実際の収録はもっともっとかかっているかもしれないのだ。いやそうに違いない。そして普通の人が45分や1時間かかって作っても全然不思議ではない。私はその本からまったく同じメニューの、ある3コースディナーを作ったが洗い物をしながらやったから2時間くらいかかった。
ともかく、それゆえ『20分で晩ごはん』では料理家さんが本気で息切れしたりしているが、ジェイミーの番組では彼がすべては準備万端だよといったふうにゆったりとかまえ、ジョークを交えつつカメラに向かってお茶目な表情を見せたりしながら慣れた包丁さばきと手際で次々に素晴らしい料理をこしらえ、アンティークやヴィンテージの素敵な器やラスティックな木のボードにさりげなく大胆にかつおしゃれに盛り付けていく。
イギリスの多くの人気料理番組がそうであるように、目の保養なのだ。そしてまったりと過ごす時間にぴったりの娯楽なのだ。だから初回の放映から2年半にもなるというのに休みなく再放映され続けられているのだと思う。

何も予定のない日曜日、私はよくトーストとコーヒーを手に、もしくはブランチを食べながら、テレビの前の肘掛け椅子に丸くなって座る。そしてこのトーク上手のシェフが目から鱗のコツを実にあっさりと披露しながらトントントンとリズミカルに野菜を刻んだり、ワシッと大量のバジルを鉢植えからむしったり、オリーブウッドのプラターにおいたチャバタのステーキサンドイッチにサクッとナイフをつきたてたりするのを感嘆の思いで眺める。キッチンでは夫が二杯目のコーヒーか紅茶を淹れながら、彼の父と電話で毎週末お決まりの近況報告をしあっている。時折、「妻かい?彼女なら元気さ、いつものようにジェイミー・オリバーの番組を見ているよ」などと実況中継を交えながら。

2013年2月24日

ふるさと

『そうにゃよか』というのは熊本の方言でとてもいいという意味だ。
大好きな熊本弁のひとつ。といっても口にするのは年配者以上で、若い人はあまり使わないだろう。とてもの熊本弁には『たいぎゃ』という言葉もあり、どちらかというとそちらを使うのではないかと思う。
当の私はというと、たいぎゃを変形させて『たーいな』だとか『たいが』と言うことが多い。とはいえ普段方言で話すことはあまりない。

若い頃は自分の生まれ育った土地やバックグラウンドをないがしろにしたり、しがらみを面倒に思ったりしたこともあったけれど、年齢を重ねるにつれ見慣れた古旦那に改めて恋する古女房みたいに熊本の良さを再認識するようになった。阿蘇や天草の観光地はもちろんのこと、三角にある小さな浜だとか、芦北にある誰にも教えたくない場所だとか、八代にある喫茶店だとか、地元のパン屋さんなど、外国人にでもなったつもりで見渡すと、よいところがたくさんあった。九州にしてもそうだ。
あちらにもこちらにも行ってみたいところがあり、あの南のアイランドを離れたくないという気持が強くなっていた。そんなおりに移住が決まった。

ちょっくら行ってきます、くらいの気持でイギリスにやってきた。

思いもかけないほど文化の違いが堪えた。

故郷は遠きにありて思ふものですか、室生さん?
でも私、故郷にいて満足してる時に来ちゃったものだからなんだかちょくちょく後ろ髪引かれるんです。

そんなわけで、今の私はスコットランド人の血を誇りにしているイギリス人みたいに、肥後っ子であることを大切にしている日本人だ。

2013年2月18日

そうにゃ、よか

ーそんせぇたぁな、そうにゃよかね。よう似合っとりますばい。ーー

と言っていた祖母の口調を思い出すことが最近よくある。
子供のようなところもあった祖母だけど、孫全員を無条件に可愛がる愛情深い人だった。そうにゃよかね、と褒めてくれることも多かった。
根っからのお百姓でずっと土まみれで働いてきたせいか、社交の場は得意ではなかった。でも今は老人ホームにいてなんとか茶飲み友達もつくって穏やかに過ごしているらしい。
ちょっとボケたかなって日も、あるらしい。

ばあちゃん、これからも長生きしてねと思う。

祖母への思慕とも相まって、そのセーターすごくいいね、よく似合ってますよ、という意味の肥後の表現がひしひし愛しい。



2012年1月12日

巡礼者たち


ロードムービーの登場人物というのはたいていにおいて、ひょんなことから旅に出ているようだ。銀行強盗で逃亡のためだったり(俺達に明日はない)、小さな娘をミスコン会場に連れて行くためだったり(リトルミスサンシャイン)、会ったばかりの見知らぬ女が子供を置き去りにして消えてしまったからだったり(都会のアリス)、トランスジェンダーで元男性だった女性が、男だった頃に生まれていた実の息子を保釈することになったためだったり(トランスアメリカ)、蒸発していた男が昔逃げた女房を探しに出るためだったり(パリ、テキサス)、たまたま預かった少年をしぶしぶ世話するはめになった中年女が、臓器売買の餌食にされそうなその少年を連れて逃げるはめになったためだったり(セントラル・ステーション)。考えてみればロードムービーが”旅行”であるケースはまれというか、ほとんどないような気がする。

エミリオ・エステベスが監督したThe Wayはまさに予期せずして始まった旅の物語だ。きっかけは家族の死、旅の方法は徒歩、目的地はキリスト教の三大巡礼地のひとつ。

サンティアゴ・デ・コンポステーラを巡礼中に命を落としてしまった息子ダニエル(エステベス)の遺体を引き取るため、フランスはピレネーを訪れた父親トム(マーティン・シーン)。遺体確認をし、ダニエルが遺したバックパックを受け取りホテルの部屋に一人きりで座るトムは深い悲しみに打ちひしがれる。彼の目に浮かぶのは生前ぶつかることの多かった息子とのやりとりばかり。ふとバックパックを背負ってみると、その予想外の重さによろめいてしまう。輝かしい学歴と目の前に広がるキャリアを捨てて世界を旅することを選び、医者である自分と最後まで意見を違えたまま逝ってしまった息子。彼はなにゆえこの地にきたのか?なぜそんな生き方を選んだのか?息子を理解したいという 父の思いか、わかってやれなかったせめてもの償いか、トムは自らサンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩くことを心に決める。遺灰の入ったブリキ缶をダニエルのバックパックにくくり付け、彼は息子の魂と自分だけの孤独な旅へと出発する。頑なにまわりとの交流を避け続け自分のことは一切話したがらない60をとうに過ぎたアメリカ人の姿は3人の年齢も国も違う旅人たちの興味をそそり、彼等をひきつける。そんな彼等を疎ましく感じ遠ざけようとするトムだが、不本意ながらも彼等と行動を共にするようになり次第に心を開いてゆく。様々なすったんだの 末に巡礼地に辿り着いた彼に見えたもの、彼が得たものとは・・・?

トムの旅の道連れとなるのはデンマーク、カナダ、アイルランドと国も違えば年齢も生き方も違う男女。旅の理由だって減量、禁煙、物書きのスランプ解消とさまざま。だけどそれだけではない本当の理由も次第にあらわになってくる。
旅の目的というのはきっかけではあるけれど、その道中に彼らが経験しているのは日常から離れて初めて見えてくる何かのようだ。それが何なのかはきっと家族も友人も伴わずにカミノ・デ・サンティアーゴを800km歩いてみないとわからない。そしてそれは旅人の数だけあるのではないかと思う。

2010年 アメリカ・スペイン合作
原作: The Way
監督:エミリオ・エステベス
主演:マーティン・シーン

2011年10月4日

美に満ちた世界


魂が抜けそうに忙しい日々。
日曜日だけは、やりかけのことにも手をつけず、すべてを忘れてもさりと過ごす。
ガーディアンの土曜版を、さんさんと陽のそそぐベッドルームに寝転んで読んでいると瞼が重くなってきて、はからずもうとうととまどろむ。
『北風と太陽』の太陽のように、おだやかだけれど強い眠りの誘いに、少しはあらがってみる。
ほどなく降伏してみれば、眠りに落ちるときも覚醒するときも、ある感覚が私を満たす。
人も車も存在感を消し去った世界で聞こえるのは
暴君のような風の音、それからその強風になされるがままに大きくしなる、天を突くように高い樹木のざわざわという音。
わたしの寝転んだ位置からは、窓の外にはちょうどその木々だけが青空を背にして見え、ふと世界に自分と風とその樹木だけが存在しているかのような、不思議な感覚に落ちる。
幸福って、わたしにとってはこういう時間。



ある時、生きることの意味がわからなくなってしまったことがある。人がどんなときにこんなことを感じるのか知らないけれど、そんな迷路に陥ってしまうのはもしかすると生きることがサバイバルではない証拠なのかもしれない。でもとにかく、人生も曲がり角を過ぎていろいろなことが続いた後だった。
昔ある友人が生きることに頓着できないと漠然と感じていたときは、わたしは彼女の気持ちが理解できなかった。まだたくさん欲があったのだ。わたしにはいつでもどんな時でも生きる欲があった。
だけど決して揺らぐことのないものが揺らいだことのショックと自分の存在価値が見出せないことに加えて、大人になってから常に感じていた孤独感がこの上なく 存在感を持つようになり、毎夜明かりが消えてからもじっと暗い空間を見つめて、同様に暗い自分の心の中に目をすえる日々が続いた。


ある冬の日、積雪の中を買い物に出かけた。ぴりりと肌をさすように冷たく澄んだ空気は心地よく、誰も歩いていない純白の雪を踏みしめて歩くと、一歩進むごとに何かじんわりとあたたかいものが胸のあたりにわいてきた。そこでふと目についた、赤い木の実。どこにでもある何の変哲もない木の実なのにそれは周囲の景色から際立って見え、わたしはそこに立ち止まり、しばらくじっとふさふさとした真っ白な雪に小さく点々としている真っ赤な実とを見つめていた。それらはただそこにあって世界の一部として存在しており、儚いもののみが持つせつなさときらめきを放っていた。『じんわり』はすっかり胸を満たして、わたしは痛いけれども幸福という奇妙な気持ちを味わった。
自然は生を受けたらそれをまっとうすることが生きること。それはいつかは終わる。明日かもしれないし数百年ののちかもしれない。でも永遠にとどめておけないのが命というものであり、だからこそ尊い。そして美しい。
思えば人生にはこんな瞬間がいくつもあった。なんでもない日常の風景に胸が痛くなるほど感動する。そしてそんなとき感じたせつなさこそ、生きているという実感だったのかもしれない。

そんな私の人生観を見事に描いてくれている映画に出会った。
デザイナーのトム・フォードが監督した『シングルマン』。
エレガントでスタイリッシュ。美意識が画面の隅々にまでつらぬかれて、
無音声で眺めたとしても最後まで鑑賞に堪えそうなほど静謐で美しい映像。
主人公はアメリカの大学で教鞭をとるイギリス人男性。愛するものを亡くし、埋めようのない孤独感を抱えて生きている。心臓は規則正しく収縮し、脳は神経系の中枢としてその役割をきちんとこなしているが、彼の心に今も生きる恋人との美しい思い出は、喪失感を強めて彼を苦しめるばかりだ。
ある日彼は生きていても仕方がないと、死を決意する。今夜帰ったら死のうと、いつも通り大学に出勤する彼。そんな彼の目に映りはじめる美に満ち満ちた世界。そしてささやかな出来事が彼の孤独をやわらげる。
生きているのも悪くない、、、彼はそう思ったに違いない。そして訪れる結末。


この結末をどのようにとらえるかは、あなたが今人生のどこに立っているか次第かもしれない。

2009年  米映画

原題:A Single Man

監督:トム・フォード
主演:コリン・ファース